普通の人には「マイノリティに憑依」なんてしてるヒマはない。

しばらく前に『「当事者」の時代』という本を読んだわけです。
こんな本↓

佐々木俊尚さんという元毎日新聞の記者さんが著した本で、
友人のTwitterかなんかで書籍名が出てきたので
まあ、目を通しました。
元記者クラブのクラブ構成員だったわけで、
いわゆるフリージャーナリストの入り込めないスペースでの取材実態とかもつまびらかにされています。
記者クラブの身内にいた筆者本人ですら「奇習がたくさん残っている」と感じるほどですから、普通人の感覚からしたら、「やっぱりそういういびつな習慣はやめようよ」と、たびたび思います。
しかし、やはり元身内という立場からでしょうか、記者クラブという仕組みについては擁護的な印象を感じます。
あと、ず〜〜〜〜〜っと論じられるのが「マイノリティの憑依」というやつです。
マイノリティとは、差別されたアイヌ人、性差別された女性、弱い者、被害者…などをさしてます。
で、「憑依」とはなにかというと、「本来、強い立場の人間が、そのマイノリティの立場を借りて論陣を張ることで、決して非難されない立場を得る」…みたいな感じでしょうか。
筆者はこれを70年代の有名な運動家の「辺境最深部に向かって退却せよ」と深く連結して記述しています。
「恵まれた育ちと環境をベースに運動に身を投じた学生には革命を語る資格はあるのか? 」
「それは否」
「ならば、社会の底辺部へ心を投じ、そこから語ろう」
というようなロジックですかね。
で、「弱い立場」「底辺の立場」からの発言に対しては、普通の人は良識的になかなか反論できない、いわば無敵の立場なのだ、というわけです。
そして、この方策は、マスコミにも多いに利用されており、メディアは、弱い者の見方をするふりをすることで無敵の立場を得ようとしている…みたいな。
「それじゃあだめだから、みんなもっと当事者になろう」
ということなのですが、
「えっ、わたし、いつもず〜〜〜っと当事者やってますが」
と思ってるわたしはちょっと白けてしまします。
いじわるく言うと、やっぱり大新聞社につとめ、記者クラブの王道を歩いてきた人だからこその感覚ではないかしらん、
などと思ってしまいました。
分量、情報量、いろいろ含め、なかなかの力作なのですが、
そのあたりが、わたしにとっては鼻についたことろです。
多少難癖をつけましたが、あの時代、この時代を、ある新聞社の記者が
どういう経験をしてきたかを知る実録書としてはいろいろと参考になりました。

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