聖地Csを読んで

作家の木村友祐氏はシャルキィロマのライブにも顔を出してくれる友人であります。以前、お酒を飲んだときは、彼の処女作でもある第33回すばる文学賞作品「海猫ツリーハウス」の感想を延々と語ってしまい、迷惑をかけたかもしれません。今日はしらふで新作「聖地Cs」について書いてみます。

2011年以降、放射性物質として知られるようになった「セシウム」の元素記号「Cs」をタイトルに入れているのは、舞台が放射能で汚染された牧場だからでしょう。ストーリーは、その牧場にボランティアに来た一人の女性の視線で紡がれます。
小説を書くとき、「神の視座」という便利な(でも難しい)視点があるのですが、それを用いないのは、あえて情報量を抑制し、神(つまり作者)による断罪や結論を避けるためかもしれません。
物語ではさまざまな矛盾や不条理も描かれていますが、問題解決の道筋が示されているわけではなく、「矛盾や不条理がそのままごろりと置かれる」ように書かれています。
小説的作為は控えめですが、中盤に挿入されるDV夫とのやりとりはとても印象的です。
この、思い出とも夢とも空想ともつかないシーンの中で主人公の女性は牛になってしまうのですが、これが物語により深みを与えています。
「女性の目線」と「牛の目線」に一本の糸がひかれ、「人間の日常」と「牛がうけている仕打ち」が重なります。そしてクライマックスへの伏線にもなっています。
牧場の物語ですから、ウンチとエサについての描写がたくさん出てきます。放射能汚染による殺処分を逃れた牛の命をつなぐ物語ですから、放射能や被爆の話しも出てきます。おそらく映像や写真ではボカシやモザイクが入るような情景描写に立ち入れるのも文字表現だからこそでしょう。
ただ、作品が短いから、というわけではなく、ちょっと「物足りない」感じも残りました。その理由はおそらく、木村氏がもっと大きくて深い物語を書けると私が感じているからです。
ところで、最近、生き物の本質とはなんだろう?と考えさせられる動画を見ました。ひとつは、女性ダイバーになついて、たわむれるウツボです。

魚が、こんなにも情感豊かな表現をする生き物であることに驚きました。
もうひとつは、陸に上がった魚の命をつなごうとしている犬の動画です。

これを見て、わたしは、こうした情感、ひょっとして憐憫の情すら有した「動物やお魚の命」をいただいて命をつないでいる事実に、すこしばかり竦んでしまいました。
そして、すぐに想起したのが「ある精肉店」というドキュメンタリー映像です。⇒リンク
木村友祐氏のFacebookによって知ったので、おそらく彼はよく知っているはずと想像しています。
牛の屠畜からはじまるこのドキュメンタリーを、実はわたしはまだ見ていないのですが、思想家の内田樹氏は次のように言葉を寄せています。

この映画は被差別部落の人々とその生業を正面から扱っているわけだが、不思議なほどに透明で、この種の映画に特有の社会的なメッセージ性がほとんどない。それはたぶん監督が、獣を育てて、殺して、食べるという散文的な作業を淡々と続けている北出精肉店の人々のはるか背後に、数千年という射程をもち、世界のあらゆる集団に拡がる「人類の営み」を感知したからではないか。

上映スケジュールが合わない場合は、同じ精肉店を題材にしたほぼ同名の書籍もあります。

さて、唐突に再び「聖地Cs」ですが、この作品は、木村友祐氏が「書きたい作品」というわけではなく、「書かなければいけなかった作品」なのではないかと想像しています。木村友祐氏が得た「「猫や牛の目」が、世界や人間をどう切り取って見せてくれるのか、今後が楽しみです。
「う゛むぉぉぉぉ」

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