脱原発って、これはもう革命の一種かもしれない。

7割くらいの国民が脱原発を思いながら、脱原発を叫ぶ菅首相の人気はまったく上がらない日本。
その理由を分析するのはここではしません。
それでも、脱原発ということそのものは、近未来に人類がやらなければならないことには変わりません。
理性的に考えれば、これ以外の選択肢はないと私は思います。
だから、今でも「脱原発に反対する人」たちの理屈がよくわかりません。
たとえば、池田信夫という評論家(?)は、自らのブログで
「脱原発は生命を奪う」と書いています。
脱原発をすると、石炭の炭鉱事故で亡くなる人が増え、
大気汚染によって死ぬ人が増える、というのです。
わたしには、これがまったくの屁理屈にしか見えません。
「屁」よりもひどい。
ウラン採掘でも被爆者はたくさんいますし死者も出ています。
日本の原発でも作業員の死者はでています。
有名な東海村の臨界事故による死者だけではありません。
通常の原発作業でガンになり、なくなった方は少なくないのです。
労災認定された人はそのうちの一部ですが(それでも国が認めたのです、原発作業が原因だと)、実数はさらに多いでしょう。
(ただ、それらがきちんと報されないだけ…)
そしてひとたび事故が起きれば、犠牲者は爆発級に増えます。
チェリノの事故による死亡者は100万人以上にのぼる、と見る学者もいます(この数字にはいろいろな見解があるので、興味のある人は調べてみてください)。
にも関わらず、池田信夫氏は、原発で亡くなる人があたかもゼロであるかのように、ことさら石炭などの火力発電にまつわる数字をピックアップし、さらには、「反原発デモをする人はテロリストにも等しい」と断じています。
会ったことないひとにこんなこと書くのは気が引けるのですが、
たとえ本人が目の前にいてもきっとこう言うので、書きます。
あんた、イカれてるゼっヾ(℃゜)々。
まあ、これがトンデモ本を書いてるわけのわからない人ならまだイイのですが、
そこそこ名前もとおった実績のある評論家、というのに、まあ、びっくりです。
さて、そんな(どうでもいい)人の話は棚に上げて、
昨日の新聞に掲載された宮台慎司氏の稿に
「脱原発総選挙は電源選択が争点ではない」
というとても重要なポイントが記載されているので、そっちの話をしましょう。
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まず、宮台慎司氏は、これまでの現状を「高額電気料金で巨額の利益をあげる電気会社が地方経済を支配する構造」と称しています。
高額電気料金=つまり、地域独占の電力会社は、競争の原理もなく、使ってしまった(必要なではない)原価に利益を乗っけて売価を決めてますから、安くしようがありません。
で、そのお金で膨大な広告投下をして、世論誘導だけでなくマスコミ支配までしちゃうわけですね。
原発用の土地摂取や反対運動制圧には、公権力だけでなく裏社会のパワーも使いますから、そちらとも仲良くなります。
彼らは巨額の資金と、時に実効的な力を自由にできますが、その原資は税金と電気料金です。
当然、政治やお役人の世界にも深く入り込み、やがてそれらは運命共同体のように、まるでひとつの巨大な生き物のように振る舞います。
「脱原発」とは、その既存の「巨大な生き物の解体」を意味します。
つまり、「脱原発」=「電源の選択」だけではない、ということですね。
たとえば、「安全性で選択する」「コスト効率で選択する」「安定性で選択する」など、いろいろな選択方法があるけれど、「電源の選択」だけなら、話はシンプルでしょう。
で、宮台氏は「脱原発」の選択は「電源の選択」だけではなく、「統治メカニズムの選択」だ、と指摘しています(だから、問題は炭鉱で何人亡くなっている、という話ではないんですよ、池田さん)。
「統治メカニズムを変える」
「統治メカニズムを変える」…これは一種の「革命」ではないでしょうか。
脱原発をやるには、そのくらいの覚悟がいるのかもしれません。
そして、できれば江戸末期の無血開城のように、無意味な犠牲を避けた革命のほうがよいですね。
勝海舟みたいな人、いないでしょうか?

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