戦士ではなく表現者として

AzeWay column

わたしは戦士ではありません。
表現者であろうとしている者です。
なので、打ち倒すべき敵は、わたしの外にはいません。
わたしの中の妬み、奢り、怠け心、慢心、絶望こそ打ち倒すべき相手です。
他者に対して「○○ダメじゃない」「バカみたい」と感じ、それを口にすることもあると思いますが、もし、本人に面と向かって言ったとしても相手は変わってくれないでしょう。
相手を罵倒する言葉は、相手に変化してもらう、あるいは分かってもらうための言葉ではなく、言った者が「せいせいする」ための言葉だからです。
かといって、そんなに「せいせいする」ものではありません。
多くの場合、むしろ、相手の感情的な反発を呼び起こし、双方に残るのは不愉快な感情と不信感です。
罵倒、ののしり、侮蔑の言葉は、実体を持った拳と同じで、それを発すれば相手から報復があり、いずれも無傷ではいられないものです。
昨年…というか、一昨年の311以降、世の中を隠蔽していたスクリーンがほころび、見たくもない暗部を見せられた気がします。
「それ違うじゃん、バカじゃないの」
と、大声で怒鳴っても、隠蔽スクリーンに荷担していた人たちや、まだスクリーンそのものを実体だと信じたい人たちにとっては、「道を歩いていてふいに拳が飛んできた」に似た感覚でしょう。
つまり、相手にはなにも伝わっていません。
そればかりか、「言葉で殴りつけた」ということで無用の反発・反感を生んでいます。
これでは、表現者として失格です。
逆の場合を考えてみましょう。
もし、自分が正しいと考えている行為を、「バカでもやらないクソ行為」などと侮蔑された時のことです。
これは、「拳が飛んできた」状態ですから、反射的に防戦、そして報復攻撃が普通の反応でしょう。
けれど、それは慎まなくてはいけません。
もっと辛いのが、自分が信頼している人や大切な人が同様の攻撃にあっている時です。時には、自分がやられている時よりも強い報復衝動にかられますが、これも慎むべきでしょう。
そういった「喧嘩案件」は、政治家ならば避けて通れないかもしれませんが、わたしは、政治家でもありません。
表現者が戦う相手は内に在るのです。
わたしは表現者であろうとしている者です。
なぜ、今、この文章を書いているかというと、
自分の存在にフレームをかけるためです。
わたしの持つリソースをどこにフォーカスするかをあらためて定義するためです。
一昨年の311以降、戦士になりたい衝動が何度もありました。
政治家のマネをしてみたい気分の時もありました。
けれど、そちらのフィールドに踏み入れれば、わたしの本意でない部分で消耗します。
ネット検索で、アルゴリズムが重視するのは「そのコンテンツがユニークであるかどうか」です。
商品広告を作るとき、わたしが重視するのは「その商品でなければ言えないことは何か」です。
そして、あらためて、自分に言い聞かせようと思うのです。
「おまえでなければできないことは何か」と。
最近、論語をぺらぺらとめくる機会がありました。
今から2500年も昔の人の言葉です。
思うことは、「昔も今もかわらない」ということです。
「昔は世界が未熟だった、そして今はすこしは完全に近づいている」
なんてことは、決してないのです。
おそらく、将来、どんなに技術が発展しても世界は不完全なままでしょう。
わたしたちの民主主義は、この後もドロボーに乗っ取られたままでしょう。
わたしたちがきっとどれだけ懸命に努力しても「不完全な結果」しか得られないと思ういます。
けれど、価値は結果にあるのではない。自分にしかできない務めを見いだし、不断の努力を重ねる行為そのものが価値なのだと考えます。
たとえばクライアントの要望に応える、お客様に満足してもらえる、といった、プロとして当たり前のパフォーマンスを行いながら、世の中に「よい影響」を与える表現が、わたしはできるはずだと信じます。
言い争いや拳のやりとりを通じてではなく、柔らかく、しなやかに「伝える方法」を見いだせると思うのです。
そのための研鑽を積み、実戦を重ねてきたんですから。
年頭の記事のせいか、なんだか青臭い結論になってしまいました。
下の画像は、味の素が北海道新聞に2010年に出した見開き広告です。
2013年の、今、この時に見ても、「伝わるもの」がある素敵な広告だと思います。(クリックすると拡大されます)
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