もう青い薬はありません。「耳の痛いことは聞きたくない」人へ…。

「青い薬を飲むと、ここで終わる。
 ベッドで目覚め、あとはお好きなように。
 赤い薬を飲むと、この不思議の国でウサギの穴がどれだけ深いか見ることになる。
 忘れるな、見せるのはあくまで真実だ。」

映画、マトリックスの中でモーフィアスがネロに言う台詞です。
3.11以降、わたしたちは「赤い薬」を飲んでしまいました。
原発のリスクのリアリティが、我が事として今も隣にあります。
さて、ネタもとは朝日新聞ですが…
原発銀座と呼ばれる敦賀市議選で当選した今大地晴美市議に起きた出来事。
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選挙告示日の演説で
「福島の原発事故は他人事ではありません」
と訴えると
「耳の痛い話は聞きたくない」
と聴衆が離れた…。
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このように、今、日本中で原発に対する発言や議論自体が「自粛」傾向にある、とする記事なのですが、いや〜、これは困りました。
わたし、がっかりです。
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耳の痛い報告、不都合な情報ほど早く上げろ→これは仕事を失敗しないための鉄則だと教わりました。
そうしないと、誤った仮説の上に立脚したプランが正義として遂行されてしまい、結果的に失敗に陥るからですね。
主権在民とされる日本においては、制度上、国民が政治の上では「上司」にあたるわけで、
「耳の痛い報告、不都合な情報ほど早く上げろ」と言い続けなければだめだとわたしは思っています。
「耳の痛い話は聞きたくない」
これはもう主権の放棄にも等しいのではないでしょうか。

アランドロン主演の「ル・ジタン」という映画は、確かわたしが高校生の頃に見たものですが、その中で、敵役がこんな意味の台詞を言います。
「民衆には適度なパンと娯楽を与えておけばいい。
 真実など必要ない」
うろ覚えなので正確ではないですが、こんな意味の台詞です。
それを見て、高校生だったわたしは、
「へ〜、為政者とはこういうふうに考えているのか」
と思ったものです。
つまり、為政者にとって、「真実を民衆に与えない」ほうが楽ちんなので、
常に民衆は為政者や社会に対し「信じるを求め」続けなければいけない。
…というはずなのに、自ら「耳の痛い話は聞きたくない」という言葉は悲しすぎます。
「耳の痛い話は聞きたくない」
この言葉が出てくる背景として、複雑な過去の経緯が想像できます。
原発建設で地域は引き裂かれたのでしょう。
さまざまな争いや諍いを経て、今があるのでしょう。
原発から収入を得ている親戚や友人も多いのでしょう。
さまざまな「痛みの過去」があって、出てきた台詞なのだと思います。
ならば、その「痛み」は国民全体でわかちあえないものでしょうか。
少なくともこれまで、わたしは、その「痛み」に知らんぷりしてました。
震災の不幸や痛みを「分ち合おう」「つながりあおう」というのであれば、
原発と共に棲まざるを得なくなった地域の「過去の経緯」や「痛み」にも同じことができると思うのです。
そうして、絡まり、凍てついたものを溶かさないことには、次のステップへ行けないでしょう。
「八ッ場ダムはなにしろ中止」
と宣して、結局、ぐだぐだになった原因も、「現地で冷凍保存された諍いや痛み」を「ていねいに解凍」するステップを踏まなかったからだと思います。
わたしたちは、すでに「赤い薬」を飲んでしまいました。
もう、プラグを挿し直して夢の世界へ戻ることはできません。
そして、目の前に見える景色は、今ある危機や苦悩だけではないのだと思います。
置き去りにしてきた問題も、今、強制解凍させられています。
いや〜、なかなかたいへんな時代です。
ともあれ、小さなことですが、今日の約束から果たして行きます。
もう青い薬はありません。

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