「民主主義の反対は社会主義。 資本主義の反対はなんですか?」
というヤフー知恵袋を見てしまいました。リンク
その他にも「民主主義の反対語が社会主義で 市場経済の反対語が共産経済でいいのでしょうか?」とかいう質問もあったりして2度ぶったまげた新年早々です。
「回答したい」という気持ちがムクムクなのですが、すでに回答が締め切られているので、このあたりのことを自分自身でもテキストとしてしたためておきます。
いうまでもなく、多くのわたしの友人たちは「民主主義の反対は社会主義」だとは考えていないはず。
中学校の時には、「ソビエトは独裁主義国家だから社会主義は民主主義ではない」と発言する同級生もいることはいましたが、わたしが「中学校で教わった」と認識しているのは、「社会主義も民主主義のひとつの形態」だということ。
いや、これも適切な表現ではありませんな。
社会主義は、資本主義に対する対義語的なポジションにいますから、民主主義というワードとは棲息するレイヤーが異なりますよね。
レイヤーを整理すると…
民主主義、君主主義、王権主義、あたりが同じレイヤー。
で、資本主義、自由経済主義、社会主義、共産主義、あたりが同じレイヤー。
それぞれ「国の統治体制」と「経済体制」という、観点の異なったレイヤーなので、「民主主義の反対は社会主義」とか「君主主義の反対が資本主義」とかは言えない道理です。
「民主主義」の反対語は「絶対君主制」とか「独裁制」「専制」という言葉になるでしょう。
同様にして「資本主義」の反対語は「共産主義」「社会主義」ということになります。
と、まあ当たり前のことを長々とすみません。が、「回答者」のつもりで続けます。
「資本主義」っていうのは、「capitalism」とも言われるわけで、「資本」があらゆるエネルギー源になる経済制度。
すでに貨幣システムが浸透していたからとか、産業革命があったからとか、いろいろな要因があって生じたわけですが、そのシステム化では資本を保有した「資本家」がとても大きな影響力を発揮します。
で、国民百科事典には、(資本主義とは)「基本原理としては生産手段を持つ資本家が、生産手段を持たない賃金労働者を使用して利潤を追求する社会システムである」と実もふたもない書き方をされています。
実際、貧富の格差、奴隷のような労働環境、物価の乱高下などの問題もたくさん生じます。
そして、それを解決するシステムとして考案されたのが「共産主義」「社会主義」という、いわばドリームあったわけです。
結局、その「ドリーム」は「夢」でしかなかったと歴史は語ります。
ただ、それは「社会主義」が間違ったシステムだったからというだけではなく、それを執り行う人間(人類?)の能力の問題なのでしょう。
おそらく、人間はどんなシステムの下でもいろいろな問題を引き起こすことができるのです。
たとえば今の日本の民主主義も、その名のもとに、いろいろなトラブルをおこしています。
本来、少数派の意見をすくい上げ、より多数の幸福を目指すはずの会議が、多数派によるアリバイ作りに見えることもあります。
さらに、その根幹をなす選挙システムも公平ではなく、時に公正ですらありません。
そうして決められていること、行われていることの中には「間違ってる」と感じることも少なくありません。
「わたしたちの民主主義はすでに乗っ取られている」
そう感じることも一再ではない昨今でした。
多数決といえば、発明王エジソンは、若い頃、瞬時に多数決を集計できる押しボタン式の投票装置を発明したそうです。
しかし、当時のアメリカの議会は「そのような機械で少数意見を簡単に切り捨てることは民主政治の精神に反する」としてエジソンの発明を不採用にしました。
わたしは、そういう、「民主政治の精神」を守ろうとする能力が人間に備わっていることを今一度思い出します。
力によって専制するのも人間ならば、少ない者や弱い者に寄り添えるのも人間であることを思い出します。
本当に民主主義って面倒くさいです。
故なく虐げられる人がおらず、誰も惨めな思いをせず、多くの人が幸せになるならば、(民主主義でなくても)それでよいかもとも思うことがあります。
でも、面倒くさいからといって、誰かに全権を委任したら、委任された人もいつか間違いを起こすでしょう。それが人間だからです。
さまざまなものが不完全なままこの世に存在しています。
民主主義も経済体制も不完全
わたしも不完全だし、あなたもまた不完全です。
システムもドリームも不完全。
味方も敵も不完全。
心のよりどころは、神などではありません。
やっぱり人間です。