卵が壁に勝つ方法についての考察その1 壁になった卵たちの話

村上春樹はエルサレムでのスピーチで、「高くて固い壁」と、それにぶつかって「壊れる卵」の話をしています。
スピーチの中で、その暗喩の一例として、
「高い壁」=「爆弾、戦車、ロケット弾、白リン弾」
「卵」=「これらによって押しつぶされ、焼かれ、銃撃を受ける非武装の市民たち」
を挙げています。
上記はとても分かりやすい喩えですが、村上春樹はその解釈を広げ、「私たちは皆、多かれ少なかれ、卵」、その時の「その壁の名前はシステム」と言葉を続けます。
そして、そのシステムは時に自己増殖し、私たちを殺し、さらに私たちを効果的な殺人者にすら変えようとします。
…と、まあ、有名なスピーチなので、その内容は多くの人がご存じでしょう。
http://www.47news.jp/47topics/e/93925.php?page=all
「高い壁」vs「卵」の戦いとなれば、卵に勝ち目はありません。
だから、「卵」が勝つためには、「高い壁」vs「卵」を「卵」vs「卵」に変換する必要があります。
もともと「高く巨大な壁」も近づいてみれば、それは「卵」によって作られているわけですから、その「卵」を相手にすることが有効な戦術ではないかということです。
このことは、以前のAzeWayにもちょっとだけ書きました
で、今日は、「高い壁」になってしまった「卵たち」のことを書こうと思います。
たとえばこの写真をご覧ください。
201106241411001.jpg
原本はこちら→http://pegasus1.blog.so-net.ne.jp/2011-06-24-1
多くの市民が不安を抱える中、玄海原発を再稼働しようとする佐賀県知事に面会を求めた人たちが直面した「壁」の写真です。
手前にいる女性市民を見下すように行く手を阻む姿は、まさに高い壁です。
そして、この壁はを作っているのは「ひとりひとりの人間」です。
名札もつけていますから、きっと名前も肩書きもあるに違いありません。
この人も、この「壁」を抜ければ、親も子供も、そして愛する妻もいる人間なのです。
そして、おそらく別なシーンでは、この人も「壁にぶつかって壊れる卵」なのです。
なのにどうして、この人は「壁」になったのでしょう?
この場合は、「県庁職員」という組織人であることが強い動機だと思われます。
組織人にとって「組織や組織の利益を守る」ことが是です。
なぜ、「組織の利益」を最優先するかといえば、その人がその組織に人生あるいは生命与奪権を握られているからではないでしょうか。
つまり、組織から抜けたら生きていけない、だから組織を守る、というわけですね。
組織の命令に対して、「それって、おかしいじゃん、へんだよ」と言ってのけられるのは、選択肢をたくさん持っている人でしょう。
ん〜、やっぱり選択肢の多様性って大事ですねぇ。
次は、放送禁止歌をめぐる現場でのお話。
テレビやラジオで放送できないとされる伝説曲はたくさんあります。
最近の話題の例では、忌野清志郎の「核なんていらねえ」でしょうか。
確かバラカンさんだったと思いますが、原発事故のあと、「核なんていらねえ」をかけたいのをこらえて「サマータイムブルース」を流したそうです。
「核なんていらねえ」は「ラヴ・ミー・テンダー」の替え歌の反原発ソング。
当初、それをかける予定だったのが、局に止められたとされています。
この場合、実際に曲を流し、東電がスポンサーとして大クレームを言ってきてやめたというのであれば、最初の例「人生や生命の与奪権を握られている」に近い話しになります。
実際に、電力会社は放送局にそういう露骨な圧力をかけた実績もありますが、このバラカンさんの場合は局側の自主規制だと想像されます。放送禁止歌の場合、その理由のほとんどが自主規制ですから。
詳しくは別稿でも書いてますが、日本の場合、放送禁止歌とは、実際にクレームが来たから放送を取りやめるのではなく、「誰かからクレームが来るかもしれない」ので放送を自主規制しているのです。
森達也氏の著した「放送禁止歌」という本の中には、ある放送局の現場の様子をこんなふうに書いています。
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「こっちの水は甘いぞ、というフレーズのこっちって部落を指すという話です」という話は多い。
誰かが「これは部落のことじゃないか?」と声をひそめて思いつきを口にする。
それを聴いた誰かが「どうも部落のことらしいよ」と誰かに告げる。
次には、「解放同盟から抗議が来るかもしれないよ」と誰かが腕を組む。
この伝言ゲームが「抗議が来た」に変質するまでに、さほど時間はかからない。
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そして、年配の上役がこう告げるのです。
「この歌は放送禁止だ」
ある時、それを知らない若いスタッフが、「この曲を流したいんですけど」と言ったとします。
その時には、先の伝言ゲームに参加していた先輩が、したり顔でこう言うのです。
「この曲にはこんな背景があって、大人の事情があるのだよ。君は知らないだろうけれど…」
こんな感じで放送禁止が決められているなんて、表現者としてはたまったものではありませんが、かの有名なロックバンド「ブラックサバス」も、読みが「部落差別」に似ている、とかいう理由で放送禁止になったときくと、その決定過程は実にいい加減だと思わざるを得ません。
この放送禁止歌は、表現者にとって大きな壁のひとつですが、
それを決める現場のやりとりは、多く日本のサラリーマンがしばしば直面する壁ではないでしょうか。
似たようなエピソードとして、北海道新聞社会部の記者という方のブログのお話を書きます。
記事に載せる歌の歌詞の「引用」をめぐってJASRAC(日本音楽著作権協会)と諍いがありました。
「引用」に関しては、著作権法でも認められた正当な権利ですが、JASRACでは、その「正当な権利」も認めず「許諾が必要」「金を払え」と言ってくるわけです。
まっすぐで正義感のつよい(たぶん?)記者さんは納得がいきません。
そこで担当デスクに相談したら、そのデスクはこう言ったそうです。
「お前が悪い。いいから振り込みの手続きをしろ。まったく面倒なことを…」
(このネタ元のブログ、今はありません。ひょっとしたらこの記事のせいで閉鎖に追い込まれたかもですが、ウェブアーカイブで保存されているデータはこちら→http://web.archive.org/web/20070605220217/http://blog.hokkaido-np.co.jp/yone-b/archives/2007/04/post_16.html)
ここで、「卵」が「壁」になる瞬間に起きていることは、おそらく「リスクの放棄」です。
「リスクの放棄」というとなんだか良さそうですが、「回避」とか「ヘッジ」ではなく、「放棄」なのです。
だから、本来、リスクと一緒でなければ手に入れられないものも放棄しているわけです。
「問題は、リスクを負わないと、さらにリスクが大きくなるということだ」
とはアメリカの小説家エリカ・ジョングの言葉とされますが、これまで日本の多くの組織で放棄されたリスクは、いったいどれほどのリスクを生んでいることでしょうか。さらにやっかいなのが、「リスクを放棄した者」が、たいていの場合、「自分はよいことをした」と信じ切っていること…痛い(>_<)。 さて、卵が壁になる例をとりあえずふたつ(ん?みっつか)挙げました。 この他にもたくさんの道筋があるのでしょう。 映画・マトリクスで、複数の一般市民が突然にエージェント・スミスに変わってしまうシーンのように。 いずれにせよ、もともと卵だった存在。壁から引き離して卵として接すれば、別な反応もあるかもしれない。 卵が壁に勝つための方法論はそう多くないと思うけど、このとらえ方はひとつの光明にも見える。 もうすこし考えてみたいと思います。

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