旧友からのツイッターのメッセージをもらい、あらためて村上春樹のスピーチを読み直す機会を得ました。
直近で話題になっている村上春樹のスピーチは、やはりスペイン・バルセロナのものでしょう。
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村上春樹さん:カタルーニャ国際賞スピーチ原稿全文
http://mainichi.jp/enta/art/news/20110611k0000m040017000c.html?toprank=onehour
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このスピーチの中で次のような一文があります。
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その力の脅威にさらされているという点においては、我々はすべて被害者でありますし、その力を引き出したという点においては、またその力の行使を防げなかったという点においては、我々はすべて加害者でもあります。
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この認識は、わたしの認識と強く同期しています。
ひょっとしたら、これに同意できない人もいるかもしれません。
「自分は加害者じゃない」と思う人もいるでしょう。
あるいは、広島にある原爆死没者慰霊碑にある「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」という言葉を持って、「我々は被害者であると同時に、加害者でもある」ということを不可解と感じる人もいるでしょう。
しかし、自我の範囲を広げていくと、腑に落ちるはずです。
「過ち=原爆による虐殺」だとするならば、「繰り返しません」と言うべきは投下した側であり、落とされた側ではありません。
でも、原爆死没者慰霊碑の台詞は「落とされた側」の台詞です。
その立場にあるもの犯した「過ち」とは、アメリカに原爆投下をさせるに至った経緯であり、それを途中で止めることができなかったことでしょう。
わたしも、原発事故当初は「東電が悪い」「自民党が悪い」「原子力村が悪い」と感じたこともありました(もちろん今でも一義的には「そこがダメじゃん」と思ってますが)。
しかしながら、事故以前の原発についての認識がどういうものであるかを告白すれば、それは、ソフトバンクの孫正義さんの感覚に近いものです。
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震災が起きる前は、原子力発電について、賛成、反対の意見も持っていなかった、考えたこともなかった。恥ずかしい話だが、電気はあって当たり前だと思っていた。
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今回のような事故、大惨事が起きる可能性があることも一部の研究者が指摘していたにもかかわらず、それに耳を傾けもせず、原発を批判もせず、「あってもしかたがないもの」と受容してきました。
つまり、「原発推進」に対し「ゆるやかに加担していた」と言われても反論できない認識だったのです。
今、わたしは「日本の社会は原発に頼るべきではない」と強く思っています。
そして、現実の社会にその考えや思いを反映させるためには知恵と行動が必要でしょう。
しかし、これまでの既得権益を守るパワーや構築されたシステムはとても強大です。
ここで思い出されるのが、やはり村上春樹氏のスピーチ、それもエルサレムでのスピーチです。
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【村上春樹】村上春樹エルサレム賞スピーチ全文
http://www.47news.jp/47topics/e/93925.php
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エルサレムでのスピーチで村上春樹は「壁と卵」について話しました。
「爆弾、戦車、ロケット弾、白リン弾は高い壁です。これらによって押しつぶされ、焼かれ、銃撃を受ける非武装の市民たちが卵です」
と、話しています。
そして、わたしたちの多くは高く固い壁に直面しており、その壁の名前は「システム」だとも述べています。
「脱原発」を考えたとき、そこに立ちはだかる壁は、まさに「システム」であり、それに対して一人の人間の志や思いは、まさに「卵」です。
村上春樹氏は同じスピーチで、こうも言葉をつないでいます。
「私たちは皆、多かれ少なかれ、卵なのです。私たちはそれぞれ、壊れやすい殻の中に入った個性的でかけがえのない心を持っているのです。わたしもそうですし、皆さんもそうなのです」
わたしは、この認識がとても大切だと思います。そして、「壁」=「システム」のカタチを変えるためにも有効な武器であると考えるのです。
「システム」は人間が作ったものです。そして、その「壁」を守ろうとするのも人間なのです。
そして、その人間も、実は「卵」だということです。
システムの実態は「卵の集合体」だという理解も可能なのではないでしょうか。
システムの中の「卵」は、自分が「卵」であることに気がついていない場合が多いです。
でも「卵」は「卵」。
そして、「卵」が「卵」であることに気づけば、「卵」VS「卵」の構図が作れます。
「システムに穴を穿つ」ために、この認識は有効なツールになるとわたしは考えます。
ところで、エルサレムといい、バルセロナといい、村上春樹氏のスピーチには大いなる賛辞とともに批判の声もあるようです。自分の認識と異なったことを言われると批判したくなるのかもしれませんが、もともと彼は小説家であって、それ以上でもそれ以下でもないわけです。
では小説家とはなにか…というと、「1Q84」の作中でこんな台詞がでてきます。
「圧倒的なおもしろさで、最後まで読ませる物語を紡ぐ以外、小説家になにを求めるのだ?」
(※原書が今、手元にないので、記憶で書いてます。正確ではありません)
つまり、小説家はジャーナリストや演説家ではなく、ましてオピニオンリーダーでもない、ということです。そんな小説家が、スピーチを行うのは、実は、それだけで大きなリスクを背負ってるわけだし、そのリスクを負って、あえて発信する、発言する、立場を表明する、というのは、とても勇気が必要なことです。
小説を書いた事や歌を歌ったことが原因で銃弾に倒れたアーティストが存在する一方、おそらく、スピーチや演説をして銃弾を受けた人のほうがはるかに多いのではないでしょうか。
えっ、そんなことまで考えるな?
いえ、表現するということは、いつでもどんな場面でもそういう覚悟が必要でしょ。
その覚悟が、表現者にオーラを与えるのだと思います。