出版プロデューサーの山田順氏が新聞でインタビューされていました。
その記事のタイトルは
「電子書籍が出版文化を滅ぼす」
という、いささかホコリを帯びたもの。
山田順氏は日本初の欧米型ペーパーバックスを創刊した人で、「日本がアルゼンチンタンゴを踊る日」(ベンジャミン・フルフォード)など、わたしも読ませてもらった本が何冊もあります。
さて、滅びてしまうとされる「出版文化」ですが、これを山田順氏はどのように捉えているのでしょう。
取材文中、「出版文化とは」という定義は出てこないのですが、どのように捉えているかを示す箇所を追ってみます。
「出版を含むマスメディアは、信頼性が高く価値ある情報を選別し、世の中に流通させる役割を担っていました」
→つまり、「有益な情報を集め、選別し、裏をとり、編集(加工)してリリースする営み」が、「出版文化」のひとつであると解釈できます。
この逆が、たとえばツイッターで、それに関しては「有名人であるだけで何百万人もの人が追いかけ、ほとんど検証もされていない情報がマスメディア並みの影響力を持つ」と断じています。
そして、もうひとつ重要なことは、「儲からなければいけない」ということでしょう。
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「(音楽はダウンロード販売によって)小売店だけではなく、アーティストから作曲家、作詞家まで、レコード業界からの収入では食べていけなくなりました」
「(電子出版や電子新聞によって)作家や編集者、記者の多くが失業するでしょう」
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という言に見られるように、携わる人が稼げなければいけないというのも、山田氏の考える「出版文化」の重要なポイントらしいです。
つまりは、これまで稼いでこれた出版という「産業あるいは事業の形態」をも「出版文化」と呼んでいるように見受けられます。
もし、そうだとするならば、たしかに「そんな出版文化」の崩壊はとどまるところを知らないでしょう。
しかし、それによって、情報の発信者や受信者の文化的な練度が劣化するとは思えません。
「誰かが編集し、加工しなければ、大衆は情報を咀嚼できない」
と、もし考える出版人や新聞人がいたならば、「それは奢りです」とお伝えしたいです。
今、いろいろなカタチでさまざまな産業の形態が変化しつつありますが、これは人類史上、しょっちゅう行われてきたひとつの更新だと考えます。
そして「文化の崩壊」がその度に起きてきたかというと、そうではないでしょう。
「地方の農家が農協や補助金にたよることなく、消費者と直接つながった」
「希少価値の高いニシキゴイの産地に欧州から直接引き合いがくる」
電子出版とはちょっと違いますが、いわゆるネット化によって、各産業に起きている変革の多くは、「文化の崩壊」ではなく「既得権益的ビジネスモデルの崩壊」であるように思えます。
ところで、山田順氏は、ゲーム産業の衰退の原因は無料ゲームの普及であり、その理由を「大衆にとってはやはり価格が第一で、質はあまり重要でないと思います」と述べています。
これに関してですが、人々がゲームに求めるものは、「高価で高度で複雑な機能」ではなく、「手軽に気軽に安く楽しめるカジュアルな娯楽性」だった、ということではないでしょうか。
ある時期、機能的には高機能だったプレイステーションより、インターフェースがわかりやすい任天堂が選ばれたのも、同様の背景だと思います。
「大衆」が「ゲームに求めるもの」は、メーカーの技術的な自己満足ではなく、「暇つぶしにちょうどよい値段と娯楽性」だった、ということですよね。
これは、「ゲームに対する態度」としてはとても健全な姿勢だとわたしは思います。
最後に、同じ新聞の別ページにこんな記事が…
(原発のメルトダウンについて)
「専門家分析 早い段階から推察可能」
って、さんざんメルトダウンを否定し、それを追求する取材もしなかったくせに、涼しい顔でこういうこと書いてます。
戦争が終わったあとになって
「いや、あの戦争はよくないと思ってた」
って言うみたいなもので、こういう伝統的出版媒体に山田氏が言うところの「信頼性や質の保証」があるのかしら、と感じさせる皮肉な記事でした。